ブックタイトル2017かごしま市民のひろば11月号

ページ
3/24

このページは 2017かごしま市民のひろば11月号 の電子ブックに掲載されている3ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play

概要

2017かごしま市民のひろば11月号

3 特集かごしま市民のひろば2017年(平成29年)11月号功績②功績③市民と   ともに地域で支え見守る介護 11月11日は介護の日です。「いい日、いい日、毎日、あったか介護ありがとう」という意味が込められているといわれます。 いつか、誰にでも訪れ得る、大切な人の介護。心を込めてお世話をしたいというのは、多くの人に共通した思いだと思います。 一方で、高齢化が急速に進行する中、介護を必要とする人は増加し、介護期間も長期化しています。核家族化や家族の高齢化なども相まって、家族だけで介護を担うことは、なかなか難しくなっている実情もあります。 介護に携わるご家族にとって、感謝の言葉やふとした笑顔が支えになっていることと思います。ただ、その日々にはやはり、心身の疲れや仕事との両立の難しさなど、お一人おひとりが抱える大変さがあると思います。 介護でどうしたらよいのかわからなくなったとき、ぜひ、本市の「長寿あんしん相談センター」にご連絡いただきたいと思います。市内17か所の窓口で、介護や保健・福祉に関する専門の皆さんがチームになって、高齢者や家族の方の相談をお受けしています。 住み慣れた地域で安心した暮らしを支える応援者が身近なところにいます。どうか覚えておいていただきたいと思います。西郷さんの歴史に人間のドラマあり?江戸城無血開城? 大河ドラマ『西郷どん』の時代考証を担当していますが、ドラマの放送、そして明治維新150年をきっかけに、歴史に触れる機会が多くなると思います。歴史の裏には必ず人間ドラマがあります。そのとき西郷さんはどう感じたか、ぜひ考えてほしいです。エピソード③「特技はみそ作り」 西郷さんはみそ作りやしょうゆ作りが上手だったそうです。同居していた人たちに指示をしてみそなどを作っていると、近所の人が何をしているのかと見に来ていたという話があります。 きっと、西郷さんの温かい雰囲気に包まれて和気あいあいにぎやかだったのでしょうね。1868年3月、江戸の薩摩藩邸にて西郷と勝海舟が会談。徳川慶喜の水戸謹慎と江戸城明け渡しを決定。4月に江戸城が無血開城となり、江戸百万市民が兵火をのがれることとなりました。天璋院(篤姫) 島津斉彬の養女となり、13代将軍徳川家定に嫁ぐ。西郷は篤姫の輿こし入れ調度品などの買い付け担当者として江戸を駆け回りました。江戸城無血開城にあたり、徳川家存続のため西郷あてに嘆たん願がん書を託しています。会見之地の記念碑(東京都港区)志學館大学教授原口 泉さん1863年薩英戦争1864年鹿児島へ帰る禁門の変(蛤御門の変)に参戦第一次長州戦争の参謀として長州と交渉1865年岩山イトと結婚1866年薩長同盟締結1867年薩土盟約締結大政奉還王政復古の大号令小御所会議1868年鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)江戸で勝海舟と会談江戸城無血開城明治に改元1869年版籍奉還1871年廃藩置県1872年新政府で参議となる1873年朝鮮半島への使節派遣が中止となり参議を辞する鹿児島へ帰る1874年私学校を設立1875年吉野開墾社を創立1877年西南戦争介錯を受け生涯を閉じる1878年大久保利通、紀尾井坂(東京都千代田区)で不平士族に襲われ死去廃藩置県 藩が県になり、「版はんせき籍奉ほうかん還 」で知藩事となっていた旧藩主は職を解かれ、新たに県令が派遣されました。 西郷は「あとは引き受ける。暴動が起きたら、おいが鎮圧する」と言い断行。約300の藩と200万人の武士の特権が消滅しました。 薩摩と長州の兵を中心とした官軍は旧幕府軍と鳥羽・伏見で戦いを開始。東北の長岡藩や会津藩を降伏させた後、箱館の五稜郭を開城させ、明治政府は国内を統一しました。 この戦いで、西郷は江戸の薩摩藩邸を焼き討ちした庄内藩に寛大な処置を命じています。このことが鹿児島と庄内(山形)の交流につながっているのです。戊辰戦争での寛大な処置いつか立場がかわって…天璋院像功績①功績②功績③生涯の幕を閉じた西南戦争 朝鮮への使節派遣をめぐり大久保利通らと対立し、西郷は政府の役人を辞めて鹿児島へ帰りました。 私学校をつくり、若者の教育に務めていましたが、ひそかに政府が鹿児島の様子をさぐらせており、そのことに怒った私学校の生徒が兵をあげました。西郷も腰を上げ「政府に尋ねたいことがある」と1877年2月に熊本鎮台の置かれた熊本城へ向かいました。 西郷軍は熊本城の攻防、田原坂の激戦に敗れ、宮崎から城山に戻りました。政府軍の攻撃は激しくなり、9月24日、流れ弾を受けた西郷は、別府晋介の介かい錯しゃくで最期を遂げました。ときに49歳でした。西南役関係錦絵 鹿児島城激戦ノ図(県立図書館蔵)