ブックタイトル2015かごしま市民のひろば12月号
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2016かごしま市民のひろば1月号
2014(平成26)年10月7日、スウェーデン王立科学アカデミーは、「明るく省エネルギーの白色光源を可能にした高効率青色発光ダイオードの発明」に対し、赤﨑勇氏(名城大学)、天野浩氏(名古屋大学)、中村修二氏(米カリフォルニア大学サンタバーバラ校)に、2014年ノーベル物理学賞を授与すると決定しました。日本の受賞者は当時計22人となる偉業でした。(現在は計24人)ノーベル賞授賞式は、スウェーデンのストックホルムのコンサートホールで行われ、カール16世グスタフ・スウェーデン国王からメダルとディプロマ(証書)が授与されました。ノーベル賞委員会のアン・ルイリエ氏が物理学賞の3人の研究を紹介し、「100年以上前にノーベルはかつて人類に大きな貢献をした人に物理学賞を贈るように言った。彼らはその望みに見事に応えた」と述べました。その後、赤﨑さんは、家族とともに晩さん会に出席し、約1300人の参加者からあらためて祝福を受けました。赤﨑さんは、スウェーデンでの授賞式から帰国後、羽田空港での記者会見に臨みました。「盛大な授賞式で少し緊張しましたが、記念講演をまとめることができ、ほっとしました。また、国王陛下、王妃様と一緒に写真を撮らせていただいた際、話しかけていただき感激しました」と感想を述べられ、報道陣の求めに応じて受賞したメダルを披露されました。2014年ノーベル物理学賞受賞赤﨑さん潜在的に明るい光への憧れを持っていたのかもしれません。■我ひとり荒あれ野のを行く市長戦後、七高(現・鹿児島大学)から京都大学に進まれますが、ご自分の進むべき道もこの頃決められたのですか。赤﨑さんその頃はまだ決めていません。七高の寮で同室の京都の中学出身の友達の影響もあり、大学は京都に行きたいと思うようになりました。市長京大で今の研究をされたのですか。赤﨑さん京大の頃は信州の山へ行ったり結構遊んでいました(笑)。卒業後、神戸工業(現・富士通㈱)という会社に入りました。大学みたいな名前で、神戸工業大学というあだ名がついていましたが、野武士の集団のようなところがありました。まもなく、技術革新によりテレビの放送が始まりました。市長当時のテレビは私も小さい頃から見ていました。赤﨑さん冷光(ルミネッセンス)にかかわりはじめたのはこの頃です。テレビを映し出す蛍光体から出る光にすごく惹かれ、生なり業わいにすることになりました。市長光の可能性に夢中になられたのですね。赤﨑さんはい、これが原点で、いつのまにか一生かかわることになりました。そしていろいろな結晶を扱って今のような研究をすることになりました。市長最終的には世界最高の栄誉といわれるノーベル賞を受賞されるなど素晴らしい成果をあげられました。その道のりではご苦労もあったと思います。赤﨑さん苦労といいますか、やりたいことをやってきただけです。ブラウン管用蛍光体は小さい粉末結晶です。単結晶の膜を作ればうんと明るいものができると考えていました。1959(昭和34)年から名古屋大学で取り組んだゲルマニウムの「単結晶薄膜」の研究が新設の㈱松下■未来ある若者へ市長赤﨑先生が実現された青色と、それまでの赤色や緑色により、白色の照明やフルカラーのディスプレイなどの実用につながり、世界の人が恩恵を受けています。本市でも、みなと大通り公園などをLEDのイルミネーションで鮮やかに彩っていますが、さらに100万球のLEDが光輝く「天文館ミリオネーション2016」を初めて開催します(今月8日メイン会場の天文館公園で点灯式)。このように、先生の生み電器産業東京研究所長の目にとまり、誘われて転籍し、そこで、かねて温めていた光・・・・・る半導体(LEDなど)の研究を開始。赤色・緑色LEDにつづき〝青色?と考えたとき、青色LEDが未到であることが分かり、「これこそ自分のやるべき仕事」と決心しました。市長青色のLEDはできないというのが当時の常識で、多くの研究者が諦めたと伺っています。そのような状況でも信念をもって地道に取り組まれたのですね。赤﨑さん誰がやってもできないことをやるのは無謀と言われていました。「我ひとり荒あれ野のを行く」という心境です。会社の上層部の目にも〝海のものとも山のものともつかない?研究と映っていたようで、会社に内緒で国家プロジェクトに応募しました。その後も研究を続け、1981(昭和56)年には再び名古屋大学に戻り、1989(平成元)年に青色LEDを誕生させることができました。出されたLEDも活用して交流人口を増やし、まちのにぎわいを創出し、滞在型観光の推進や地域活性化を図りたいと考えています。最後に若者へのメッセージをお願いします。赤﨑さんいつも口癖のように言っているのは〝はやり?にとらわれないで、本・・・当に自分がやりたいことをしてくださいということです。それを見つけるのは簡単ではありませんが、本当に好きであれば、できなくても続けられると思います。また、「失敗」はこのやり方では駄目だという「教訓」だと思っています。英語のことわざに「経験は最高の師」(Experience isthe best teacher)とあるように、失敗してもそれ自体が貴重な経験だと思います。市長本日はお忙しい中、素晴らしいお話をいただき、本当にありがとうございました。森博市長昨年6月、母校の大龍小学校の児童と交流された赤﨑さんご夫妻名古屋大学の赤﨑記念研究館展示室名城大学附属図書館内のノーベル賞受賞記念展示コーナーC R The Nobel Foundation写真提供:名城大学2016年(平成28年)1月号新春市長対談3かごしま市民のひろば