ブックタイトル2015かごしま市民のひろば12月号

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概要

2016かごしま市民のひろば1月号

新春市長対談名古屋市の名城大学で、鹿児島県出身者として初めてノーベル賞を受賞された赤﨑勇さん(名城大学終身教授・特別栄誉教授)と森博幸鹿児島市長の対談を行いました。幼少期から旧制高校までの多感な時期を本市で過ごされた赤﨑さん。社会に出られてからは、消費電力が少なく、長寿命な光であるLED(発光ダイオード)の研究に人生をささげることになります。青色のLEDは「20世紀中は実現不可能」ともいわれた難題でした。多くの研究者が断念する中、赤﨑さんは青色の開発を諦めることなく長年研究され、60歳のとき世界初の窒化ガリウムpn接合型青色LEDを誕生させました。青色の誕生で、すでに開発されていた赤色・緑色と光の三原色がそろい、照明で一般に使われる白色などあらゆる色をLEDで表現できるようになりました。現在は照明のほか、信号機、イルミネーション、スマートフォンのディスプレイなどでも使われ、私たちの生活になくてはならないものとなっています。市長本日は、新春対談の機会をいただき、ありがとうございます。赤﨑さんこちらこそ、ありがとうございます。■鹿児島大空襲での壮絶な体験市長赤﨑先生の青色LEDにちなみ、本日は青のネクタイをつけてまいりました(笑)。さて、先生は、南九州市知覧町のお生まれです。私の父母も知覧の出身です。母の旧姓は赤﨑です。先生がノーベル賞を受賞されたとき、親戚かと思いましたが、残念ながら血縁関係はなかったようです(笑)。先生は、ノーベル賞や京都賞など多数受賞され、地元鹿児島の英雄です。何歳まで知覧で過ごされたのですか。赤﨑さん知覧にいたのは2歳くらいまでのようで、ほとんど記憶にありません。その後、鹿児島市に移り住み、戦争で自宅が全焼してしまったため、終戦後、衣服など必要なものを知覧の親戚をまわりもらったことを覚えています。市長赤﨑先生は、大龍小の校訓「敬天愛人」と二中(現・甲南高校)の校訓「剛ごう・明めい・直ちょく」が鹿児島で学んだ精神的支柱となり、戦時中も先輩たちと交流を深める中で、心身を鍛錬できたと著書で回想されています。その二中在学中の1945(昭和20)年6月に鹿児島大空襲があったのですね。赤﨑さんはい、空襲の前日まで学徒動員で佐世保にいました。ちょうど任務があり鹿児島市に帰ったのですが、空襲のときは城山の上り口にある親友宅にいました。焼しょう夷い弾だんの火がすごくて、親友の弟と必死に消しました。何時間か頑張ってなんとか消しましたが、市街地の方からガスがどんどん流れてきて、息苦しくなり、倒れこんでしまいました。翌早朝、父が迎えにきて「勇!」という声で、我に返りました。そのまま倒れていれば、ガス中毒になっていたかもしれません。付近で焼け残ったのは親友宅だけでした。市長8回にわたる空襲で鹿児島市の9割以上を焼失しました。赤﨑さん自宅も全焼していました。ですから私の幼いときの写真は、肌身離さず持っていた2枚しかありません。市長そして終戦を迎えられたのですね。赤﨑さん二中4年の8月に終戦となりました。口には出しませんでしたが、戦況は厳しいと感じており、正直ほっとしました。焼け跡で2回ほどグラマン戦闘機の機き銃じゅう掃そう射しゃを受けました。多くの年配の方が同じような体験をされています。また私より年長の方が多数、戦病死されています。どんな事情があっても、戦争は絶対にしてはいけません。私の心からの願いです。■光への憧れ市長戦争を知らない世代には想像できないほど壮絶な体験をされたのですね。赤﨑さん戦災後、鹿児島市の川上に疎開しており、当時伊敷に移転していた二中には片道2時間半ほど歩いて通っていました。家に帰っても教科書はなく、古い辞書を借り、魚油を使った小さなランプの灯りで見ていました。とにかく光が欲しかったのです。森市長はご存じないかもしれませんね。市長はい。戦後(昭和24年)生まれですので。赤﨑さん戦時中は、灯りが絶対に外に漏れないように室内を暗くしていました。私だけでなく、同世代の人は灯りに対して特別な思いがあったと思います。市長学生時代の多感な時期に体験されたことがその後の人生に大きな影響を与えたと思います。戦時中の体験が光の発明につながったのかもしれませんね。赤﨑勇名城大学終身教授・特別栄誉教授焼け野原となった本市(撮影:平岡正三郎氏)みなと大通り公園のイルミネーション2016年(平成28年)1月号2新春市長対談かごしま市民のひろば赤あか﨑さき勇いさむさんの主なプロフィール1929(昭和4)年1月30日南九州市知覧町生まれ※4人きょうだいの次男1941(昭和16)年大龍尋常高等小学校(現・鹿児島市立大龍小学校)卒業1946(昭和21)年鹿児島県立第二鹿児島中学校(現・県立甲南高等学校)4年修了、第七高等学校造士館理科甲類入学1949(昭和24)年第七高等学校理科卒業、京都大学理学部入学1952(昭和27)年京都大学理学部卒業、神戸工業㈱(現・富士通㈱)入社1959(昭和34)年名古屋大学工学部助手(後に講師、助教授)1964(昭和39)年㈱松下電器産業(現・パナソニック㈱)東京研究所基礎第四研究室長・半導体部長1981(昭和56)年名古屋大学工学部教授・1985(昭和60)年、「高品質窒化ガリウム単結晶」の世界初の実現?1989(平成元)年、窒化ガリウムpn接合型青色LEDの世界初の実現1992(平成4)年名古屋大学定年退官(現在、同大学特別教授・名誉教授)、名城大学理工学部教授(現在、同大学終身教授・特別栄誉教授)2004(平成16)年文化功労者顕彰2009(平成21)年京都賞受賞2011(平成23)年エジソン賞受賞文化勲章受章2014(平成26)年ノーベル物理学賞受賞※詳しくは3面下をご覧ください2015(平成27)年鹿児島市が市民栄誉賞を、鹿児島県が県民栄誉表彰を贈呈(注)他にも著名な賞を多数受賞されています甲南高校のノーベル物理学賞受賞記念碑鹿児島市民栄誉賞授賞式名城大学での研究の様子