桜島爆発の日 大正3年の記憶 立ち読み

桜島爆発の日 大正3年の記憶 立ち読み page 9/18

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概要:
桜島爆発の日

割ぐらいが垂水方面に避難してゆきました。 当時、湯之の人口は二千人ぐらいだったと思います。湯之衆の避難のあわてぶりを見て持木の人々は、湯之のあわて者が  と笑いました。しかし、後でわかったことですが湯之の人達の判断が正しかったのです。 持木の人達は「測候所が桜島爆発の地震じゃないと言うのだから」と、それまでは誰一人として避難のことなど考えてもいませんでした。 地震と山崩れの音はだんだん強くなるばかりでした。それでも持木の人達は、恐る恐る砂糖製造を続けておりました。夜半を過ぎても地震とゴウ、ゴウ、グヮラ、グヮラと例えようもない音は烈しくなるばかりで、夜明け近くになると地底から突きあげるような地震が始まり、とても家の中にいることはできません。 持木でも、夜が明けたら早く逃げなければ大変だと心が変り、朝飯もそこそこに各人持てるだけの着物や手荷物を持ち、海岸に集まりました。女子供はいよいよ騒ぐようになりました。午前八時頃にはほとんどの村人が海岸に集まりましたが、持木にはその頃、大きな船三隻と中型二隻と小さな釣り船が二隻しかありませんでした。 持木の戸数九十戸、人口が五百人を少しでたくらいでした。大きな船は、馬場市兵衛船35